019_法律を破るということ

国家権力による強制力を伴った社会規範。まず、法律の勉強をし始めたとき、私はこれが法律の定義であると学びました。どういうことか順を追ってお話します。

個人の自由は、そもそも自然発生的な権利として存在していたが、国家権力より侵害されやすい性質のものなので、憲法による保障が不可欠

でも、ひとりひとりが権利を主張したら、そこら中で衝突が発生してしまう。

だから、権利と権利のぶつかり合いを調整する機能が必要である。この機能は「公共の福祉」と名付けられ、憲法の中に4か所配置された。

公共の福祉は、できれば自主的な社会規範として存在するに越したことはないが、終局的に解決しなければならない場面では国家の介入が必要なこともある。このためには、社会規範に国家による強制力を伴わせなければならない。

そこで、国民の代表者の集まりによって国会権力による強制力を伴った社会規範を決め(立法)、そのルールの範囲で国家権力に運営を委任し(行政) 、少数派の意見は個別具体的な事案に則して判断する(司法)こととした。

この制度によって、社会規範に国家権力による強制力を付けるかどうかは、国民の自由に委ねられることとなり、三権が分立することで、運営から偏りを排除しようとしている。

超~ざっくり言えば、これが法律の有り様なのですが、特に刑事法規は罰金や懲役などで直接的に個人の自由を奪うものですので、そこまでしても優先すべき利益とは何かをはっきりさせる必要があります。
したがって、ひとつひとつの法律には、国家権力による強制力によって「いったい何を守るのか」という考え方が存在すると考えられています。これを「保護法益(ほごほうえき)」といいます。
つまり、法律で罰金や懲役を科してまでも、ある行為を何が何でも禁止または強制する意味。その強制力によって保護したい利益のことです。

つらつらと書きましたが、今回のテーマ「法律を破るということ」は、この「保護法益を侵害」することになるのです。

例えば刑法。

殺人罪の保護法益は「人の生命」。当たり前ですが、殺人は「人の生命」という保護法益を侵害する行為です。

では、放火はどうでしょう。その中でも、例えば自分の家に故意に火をつけて全焼させてしまったけど、たまたま風向きのおかげで、結果的にあやうく近隣の家屋は飛び火を逃れたような場合です。
結果としては放火した者が自分の財産を失っただけ。だから放っておけ。というわけにはいきません。周囲の家は結果的に燃えなかっただけで、この放火によって不特定多数の人の生命・身体・財産を危険にさらすという「公共の危険」という保護法益を侵害したと考えます。
特に住宅が密集する日本はこの「公共の危険」という保護法益が重視されており、放火は重罪です。そして刑法では様々なパターンごとに細かく犯罪類型が定められています。

こうして、各法律の構成要件ごとに保護法益とは何かということがしっかり検討され、立法、学説、判例が積みあがって、現在に至ります。

一方、企業の問題になると、反社会的勢力との関係も、インサイダー取引も、独禁法違反も、誤認表示も、贈収賄も、情報漏洩も、会計不正も、書類偽造も、記録不備も、ハラスメントも、それぞれ保護法益が全然違うはずなのに、なぜかぜーんぶひとくくりで「不祥事」と説明されてしまいます。

そして、セミナーやコンプライアンス研修会などでは、とにかく「けしからん」「よしなさい」「やめなさい」いや「やりなさい」などと連呼されるのですが、何が悪いのかを深堀して説明をしてくれないので、イマイチ腹に落ちない。

本ブログでは、あえてここに踏み込んで考えてみたいと思います。巷のコンプライアンスマニュアルや倫理ハンドブックにすでに書かれていることは最小限にして、「なんでダメなのか」「破ったら何を侵害することになるのか」「その結果どのような不利益が起きるのか」といったように保護法益をなるべく検討しつつ、これからひとつひとつのテーマを深堀していきたいとおもいます。

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